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朝日遺跡について
朝日遺跡について

朝日遺跡は、弥生時代前期から古墳時代前期(紀元前6世紀~紀元後4世紀頃)まで営まれた全国でも有数の大規模集落です。この地方の生活·文化の中心として栄え、東西日本の弥生文化をつなぐ重要な役割を担っていました。
1970年代に、道路建設にともなう大規模な発掘調査が始まりました。それまでは点在する貝塚や遺物包蔵地と考えられてきた個々の遺跡が、まとまりをもつ一つの集落であることが明らかになり、この集落跡を「朝日遺跡」と呼ぶように統一されました。これまでの調査によって、遺跡の範囲は東西1.4km、南北0.8km に及び、遺跡の面積は80~100万㎡と推定されています。北東から南西にかけて流れる谷の南北の微高地に住居が営まれていました。居住域を取り囲むように墓域がつくられました。とくに東側と西側に、大規模な墓域が広がっています。
発掘調査では、環濠・逆茂木·乱杭からなる強固な防御施設が発見されたことをはじめ、埋納された銅鐸、玉作りの工房跡、最古のヤナ遺構など重要な発見が相次いでます。

史跡貝殻山貝塚
史跡貝殻山貝塚

貝殻山貝塚は、尾張地方最古の弥生遺跡として、また、西日本を中心とする前期弥生文化の東端の遺跡として、古くから学界で注目されてきた遺跡です。昭和46(1 971)年12月に、貝殻山貝塚周辺の10,169.4㎡が国の史跡に指定されました。貝殻山貝塚は、朝日遺跡の南西部に位置し、この大集落に最初に人々が住みはじめ、朝日遺跡の出発点となった場所でもあります。

朝日遺跡の時代(主な弥生時代の遺跡)
朝日遺跡の時代(主な弥生時代の遺跡)

▶朝日遺跡(愛知県・80 万㎡)
東海地方最大の弥生集落で、東西文化の交流の拠点として栄えた。集落を囲む環濠とともに発掘された逆茂木・乱杭などの防御施設は、弥生時代が戦乱の時代であったことを物語る資料として有名。
▶吉野ヶ里遺跡(佐賀県・100 万㎡)
全国一の規模をほこる環濠集落。発掘された楼閣や倉庫群は、『魏志倭人伝』に記された「邪馬台国」の姿を彷彿させる遺跡として注目された。国の特別史跡に指定され、国営公園として復元整備が進められている。
▶登呂遺跡(静岡県・9.9 万㎡)
日本で初めて水田跡が確認された遺跡として有名。国の特別史跡に指定されており、弥生時代後期の典型的な農耕集落の姿が復元されている。
▶原の辻遺跡(長崎県・24 万㎡)
九州と朝鮮半島の中間にあり、大陸との交流の窓口として栄えた。中国の歴史書『魏志倭人伝』に記載された「一支国」の王都と推定されている。
▶池上曽根遺跡(大阪府・60 万㎡)
弥生時代中期を中心とする環濠集落。日本最大級の大型掘立柱建物(東西19.2m、南北6.9m)やクスノキをくり抜いた丸太井戸(直径2.2m)が発見され話題となった。
▶唐古鍵遺跡(奈良県・30 万㎡)
昭和初期から発掘調査が行われ、弥生時代が農耕社会であることを明らかにするとともに、年代のものさしとなる土器の編年研究の基礎にもなった。最近の調査では、楼閣を描いた絵画土器や青銅器の鋳造施設が発見されている。

巨大な環濠都市
巨大な環濠都市

朝日遺跡に集落が開かれたのは弥生時代前期、今から2200 年ほど前のことです。当初は小規模な集落でしたが、中期になると飛躍的に大きな集落へと発展しました。 イラストは、発掘調査の成果から、最盛期の朝日遺跡を復元して描かれたものです。遺跡の中央を谷が走り、谷をはさんでそれぞれ居住域が形成されます。居住域のまわりには環濠(かんごう)と呼ばれる堀がめぐり、その外側は逆茂木(さかもぎ)や乱杭などの防御施設によって守られています。また、玉作の工房跡が見つかっており、特殊な生産活動に従事した人々が住んでいたようです。居住域に隣接して大規模な墓域が営まれ、溝で区画された墓(方形周溝墓)が連綿と築かれています。 最盛期には1000 人もの人々が生活していたと推定され、遠隔地との交流も盛んに行われていました。多くの人とモノが行き交う朝日遺跡は、東海地方最大の弥生時代都市だったのです。

強固な防御施設
強固な防御施設

弥生時代は、集落間や地域をこえた争いが何度となく繰り返された時代でもあります。弥生文化の広がりとともに、戦いにそなえ堀をめぐらせた、環濠〈かんごう〉集落が各地に現れました。
朝日遺跡も環濠集落のひとつですが、ここではさらに強固な防御施設が発見されています。弥生時代中期の北居住域では、環濠と土塁(どるい)が築かれ、その外側には、枝がついたままの木をからめた逆茂木(さかもぎ)、斜めに打ち込まれた乱杭など、何重ものバリケードがつくられていました。
朝日遺跡の発掘調査で全国でも初めて発見されたこれらの防御施設は、集落の城塞的な姿をうかがわせ、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを「戦乱の弥生時代」へと大きく変えていくことになりました。
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様々な食物
様々な食物

縄文時代の終わり頃にもたらされた水田稲作の技術は、弥生時代になって急速に広がっていきました。朝日遺跡は、濃尾平野においていち早く米作りをはじめた集落の一つで、炭化米をはじめ石庖丁(いしぼうちょう)、スキやクワ、杵・臼といった遺物が多く出土しています。 また、米以外にも様々な食料がみつかっています。居住域の縁辺には多くの貝塚が残され、ハマグリ・カキ・シジミなどの貝類が食べられていました。アジ・サバ・スズキなどの魚類も豊富で、漁労の比重も高かったようです。シカやイノシシなどの動物の骨は、狩猟も盛んに行われていたことをうかがわせます。マメやクルミ、モモなど、木の実や果実も弥生人の食卓に彩りをそえたことでしょう。 朝日遺跡の豊富な自然遺物は、弥生時代の人々が米以外にも様々な動植物を食物としていたことを示す貴重な資料です。

重要文化財朝日遺跡出土品
重要文化財朝日遺跡出土品

平成24(2012)年9月6日、朝日遺跡の主要な出土品2,028点が国の重要文化財に指定されました。
多彩な出土品は、東海地方を代表する弥生時代の大規模集落の出土品一括として、弥生時代の生活、文化を知るうえで、全国的にも貴重な資料となっています。